2008.04.26
いよいよゴールデンウィークに入りました。
今年は例年になく暖かく桜の開花も早そうです。
アザラシも100頭ほどいて、観光客には、喜ばれそうです。
ただし漁模様はよくありません、意外と海水温が上がってきません。
ヤリイカの姿もまだです。
2008.04.21
公園内にやっと花が咲き出しました。
エゾエンゴサクが満開になり、イチゲも咲き出しました。
我が家の裏ではカタクリやエンレイソウが蕾をつけて、
もう2.3日で咲き出しそうです。いよいよ花の島焼尻島も本番です。
漁師もヤリイカ漁の準備に入り、定置網の型枠作りに精を出しています。
早く美味しいヤリイカが食べたいものです。
例年ですと連休中には何とか食べられるんですが?
山にはワサビも出て、アサツキ、ギョウジャニンニク、と揃い踏みです
後はイカが揚がるのを待つのみです。
2008.4.16
アザラシが戻ってきました、100頭ほどになっています。
トドは相変わらず10頭から20頭ほどがいて漁師も困っています。
ワサビの伸びがあまりよくありません、でも何とか口に入りました、雨が少ないせいかもしれません。
昨年もそうでしたが、冬の雪も少なく春先の雨も少ないと花があまり綺麗に咲きません。
2008.04.6
転勤シーズンが終わり島も一段落ですが、漁模様がいまいちパッとしません。
アザラシも先月末にすっかり姿を消して、本当に魚がいなくなったのではとちょっと心配しましたが、
また少し戻ってきて、今日現在で20頭ほどいます。
トドは相変わらず10頭近くいますが、漁師にとってはいずれも厄介ものです。
カレイ網もトドにやられ漁師はお手上げです。
南海岸ではフキノトウやアサツキが伸びてきて、いよいよ山菜の季節です。
鷹の巣付近では、キバナノアマナが咲き出しています。
焼尻島のめんようが今年から民間業者痛くされ萌州ファームと名前を変えてスタートしました。
子羊も元気で畜舎の周りを走り回って、いよいよ島も春です。
先日、我が家の先代が書き残した新聞を読んで掲示板に書き込みをいただきました。
ジンギスカン鍋のルーツについて満州にいたころの話を綴ったものですが、その当時
のことをご存知の方からお便りをいただきました。先代が生きていたらさぞや昔話に
花が咲いたことでしょう。
せっかくですからその新聞の記事をここに載せます。
成吉思汗(鍋)・・・(一)
昨年(平成元年)、NHKの89フロンティア北海道の番組の中で”特集・成吉思汗料理の
ルーツを探る”が放映された。いま私たちが食べている成吉思汗料理は何時頃何処から
始まったのかを、尋ね歩いた取材のレポートである。北京料理からと聞いては本州まで
飛んだり、道内の老舗を当たったりして辿り着いたのは滝川の道立種蓄場である。
ここに、昭和5年に現在のような料理方法で羊の焼肉を食した、との記録が残っている
のでルーツはこの種蓄場であろうかと結んでいた。
私が旧満鉄に在職中(昭和9〜16年)は公主嶺にいた。公主嶺は長春(新京)の南60
キロメートルにあり四平街との中間に位置し、ロシアが満州の権益を保持していた頃、
駐留ロシア軍の司令官のいた処である。また、日本が日露の戦役に勝利し満州の権益
と東支鉄道(長春ー大連間、後の南満州鉄道)を譲り受けたが、この鉄道の引継ぎが
行われたのも公主嶺である。古い由緒の街であったが、また森の都と言われ樹の多い
ことでも有名であった。鉄道線路を境にして住宅街と商店街に分かれ、住宅街は道路幅
広く街路樹に囲まれ、店は満鉄消費組合の店舗、食堂は駅の構内食堂と満鉄職員
クラブの食堂だけ、という静かな街で住宅は全てロシア時代の建築で煉瓦造りであった。
私は駅勤務(事務屋)であったが、住宅街のはずれ、50メートルもポプラ並木の続く奥に
満鉄農事試験場があった。大正2年の設立で、敷地70万平方メートル、本館には種芸・
農芸化学・病理昆虫の三科があり、満豆大豆の改良に大きな功績を残した。その右隣
の160万平方メートルの敷地に畜産科があった。(大正6年の設置で、私たちは単に
蓄産と呼んでいた)事務室を中心に、羊舎(3)・豚舎・牛舎・鶏舎、その他必要な建物が
全て円形に配置され、建物の一つ一つが立ち木に囲まれていた。そのむこうには地平
線にさがる広々とした放牧場が続き、常に2000頭以上の羊が放牧されていた。畜産
の主たる仕事は羊の品種改良と毛や皮の製品、または乳製品の製造技術の向上に
あった。
2003.04.08
成吉思汗(鍋)・・・(二)
この農事試験場の畜産が現在様式の成吉思汗のルーツである、と当時の私達は思って
いた。(鍋、或いは料理とまでは言わず成吉思汗で通っていた)大正の末頃には公主嶺
の在留日本人の間では既に食されていた。それが「成吉思汗は公主嶺」を一躍有名にし
たのは、いまは亡き秩父宮が陸軍大学在学中に満州にこられた。(大正の終わりか昭
和の初め)このとき関東軍では公主嶺で成吉思汗の野宴でおもてなしをしたところ、殿下
はいたくご満足されたそうで、その後農事試験場では東京の官邸に羊肉をお送り申し上
げたという。(このことについては私の公主嶺時代の同僚のI君から聞いた。彼は公主嶺
の生まれ、彼の御親父も農事試験場に勤めておられた。彼は現在山形県に在住。何分
古いことなので、互いに年代の記憶も薄れがちである。)
この秩父宮が賞味されたことが契機となって、在満の日本人の間に普及していったのだ
が、当時の中国では満州族も漢族も羊肉の食習慣がなかったので、一般農家では食用
としての羊は飼育されておらず、街の肉屋にも羊肉は売られていなかった。羊肉を食して
いたのは放牧の民と言われる蒙古族だけであった。だから、その頃羊肉の供給が出来
たのは農事試験場だけで、調理の一切は駅の構内食堂に托されていた。
そんなこともあってか、何時とはなしに成吉思汗は公主嶺でと言われるようになっていっ
た。私が公主嶺在職中の昭和10年頃には、新京(長春)から成吉思汗列車(正式には
納涼列車)が運転され、100〜150名の客が送り込まれた。既に畜産構内には引込線
が敷かれていたので列車はそのまま構内に乗り入れ、一大野宴が張られた。その外に
も訪れる者が増していったが、この料理の原点は野趣にあり宴席は全て戸外で、
今日のように屋内でやるものではなかった。
公主嶺農事試験場の場長を始め主なスタッフは殆んど北大農学部で占められていた。
それから考えると北海道の種蓄場とは或る程度往来のあったことは察せられ、どちらが
持ち込んだのかは私にもしかとは判らないが、この料理は放牧の蒙古の人達が、夏は
草原で冬は包の中で羊肉を焼いて食べることから、また蒙古の飯店(飲食店)のメニュー
にカオヤンルウ(羊焼肉)があるが、これらが基になっていると想像される。公主嶺の
「たれ」も蒙古の飯店からのものであろう。「成吉思汗」と名付けたのも公主嶺の農事試
験場と思う。確かな記録の持ちあわせはないが、前出のI君の話や畜産には友人もいた
ので彼らの話も思い出しながらではあるが、成吉思汗のルーツは公主嶺の農事試験場
である、と今でも私は思っている。
付け加えれば、当時は「たれ漬け」の肉はなく、焼く直前にシャンミュウ(川えびから抽出
した油)に浸して焼き「たれ」をつけて食べた。さらに付加すれば、一人分として通常
600gの羊肉が用意されるのであるが、若い者ばかりのときはそれでも不足する。急に
追加を言っても出来ない。街の肉屋に走り豚肉で間に合わせる。飲み物は日本酒か
焼酎だけにしておけばよいのだが、この豚肉を食べてビールを飲むと必ずと言っても
いいくらい夜中に急性腸カタルを起こして病院へかつぎ込まれる。「夏は水沸く百度
余度」と歌われた満州の酷暑の故だったのだろうか。因に羊肉1頭分が5円、10人
グループで一人1円も出し合えばたらふく飲み食いの出来た時代のことである。
2002.10.20.
当館の先代磯野利男が10年間にわたって焼尻島の自然や歴史、人々の生活などを
書き綴った「わたしのかわらばん」がCD版でよみがえりました。先代が亡くなって
から何とかこの「かわらばんを」永久に保存する方法はないものかと思案していた
ところ、羽幌海鳥センターのスタッフのご協力により1号から311号の最終号までを
CDRに収めることが出来ました。皆さんのご協力に深く感謝いたします。
この機会にたくさんの人たちに読んでいただいて焼尻島のことを少しでも知って
いただければさいわいです。
1枚1.000円(送料別)で販売をしています希望者は、メールか掲示板でお申し込みください。
アドレス:2001@isonoya.com